| 健治郎会長が語る、「昔の話、まあ聞いちょ」(2003.6.25連載開始) |
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| その17【商店街のにぎわい】(2006.11.21) |
| いつもの昔話に何を書こうかと迷いつつ思い出したのが昔の商店街でした。私の生まれが1930年(昭和5年)で、もの心が付いてきた当時の佐野駅前商店街を過去の記憶を辿ってみます。 まず初めに出るのは、それはそれは非常に活気が満ち溢れている町と商店街やった、という言葉です。それを偲ぶのが現在でもその面影を残す建物が懐かしく僅かながら残っていることです。 活気あふれた町と商店街を形成してくれたのが、当時としては我が国での一流の物作り工場が多く、そこで働く多くの従業員たちでした。休みともなれば町にあふれるほどのその方々が佐野の町場での消費の活力を支えてくれていました。ではどんな工場があったのでしょうか。まず第一にタオル、綿布、シャットルという繊維関連、それから自転車のスポーク、電気碍子等が泉州での花形企業で国内はもとより海外との商いも盛んに行われていました。この様なことで懐(フトコロ)が豊かでしたので、町で買い物をし、夜は花街に人が集まり、いまから見れば夢華やかな商店街でした。 当時の佐野には芸子、芸者さんが100〜150人程おったと聞いていました。正月の十日恵比寿や二月の年越しには、芸者さんの乗った宝恵籠(ほえかご)が数多く駅前商店街に並んだ事が記憶にのこっています。現在の商店街の中程にあります東京三菱UFJ銀行あたりには「木嶋楼(きじまろう)」、駅前には「魚喜楼(うおきろう)」と言う共の格式の高い料亭があり、また泉州銀行のあたりには「から吉」という料理屋。そして、忘れてはいけないのが新地通り商店街の中程に、芸者さん達を幾多の料亭、料理屋に振り向ける大きな検番(けんばん)などがあったのです。検番の建物はいまも信貴歯科医院の隣に残っています。こんな花街でしたから宝恵籠が駅前通りに並んだのでしょう。 私が幼稚園の頃でしたか、今思いますと当時の陸軍の和歌山連隊が和歌山市内と、加太に野砲連隊があったように思います。というのも母の兄が市内の、弟は加太に入隊していましたので、いずれも母に連れられ面会に行った事が、おぼろげに思い出されます。 加太の連隊が和歌山から大阪まで行軍して行く際には、当時の佐野町を宿営地として利用し、下士官、将校達が木嶋楼や魚喜楼を宿として、それ以下の兵士は民泊です。役場から各家庭での空き部屋提供の要請があり、その時代には兵士の受け入れは名誉としていましたから、一軒に2〜3人の兵士が宿をとりました。その家に娘さんが居って二人が愛し合ったかどうか?知りませんが、そこの娘さんと結婚したとかいう話も聞きました。 母の弟は下士官でしたので木嶋楼に到着して軍馬から降りる姿が目に浮かびます。当時は木島楼の向かいに店がありましたので、その叔父が宴会の始まる前に店に寄ってくれました。イャ・・・・素晴らしい姿でした、身長は170以上有りましたか体格はがっちりとし、顔には太い髭、そして腰にはサーベル(西洋刀)。サーベルの柄の所には真っ白な手袋を吊し、サーベルのガチャガチャという音ととともに店に入ってきました。瞬く間に店の前には人集りとなりました。 えらい脱線しましたが元にもどしまして、夕暮れともなれば大勢の芸子、芸者さん達が目も鮮やかに着飾り検番に脚を運んでいました、思い出しても面白いですな。 さて映画館では国見館、電気館、寄席では春日座等がありました。3〜4才頃の記憶では駅前通りから一本大阪よりの筋に「いろは座」と言う芝居小屋も有りましたが幼い頃に火災で消失しました。 その茶屋町、寄席せや映画館、そして買い物へと、客で人並み途絶えることなく賑やかな町で、私の店でも店の終わるのが午後10時を回るまで商売していました。そのころは映画館が果てて(終わって)から「うどん」でも食べて帰えろうと言うの習わしのような事でした。 商店街では店によっては特に中元、歳暮、年末のせんもん(誓文)払い(十二月二十日以降)と言う売り出しは特に忙しく、お金の札を大きな空き箱に入れその上から脚で踏みつけたとかを子供心に耳にしたことがあります。ほんまかいな? |
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