健治郎会長が語る、「昔の話、まあ聞いちょ」(2003.6.25連載開始)
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その23【不思議なマスクでボー】(2007.5.13)
 私が生まれたのが昭和5年ですから我が国では軍隊が非常に強い力を持った時代でした。軍隊を誹謗するような言葉を、警察、憲兵(軍隊の警察)の耳に入れば、重営倉(兵隊の拘置所)にいれられ家には二度と帰る事が出来ないと、両親、祖母から教えられて育って来ました。
 その戦争中の事ですが、いま思い出すと、軍隊が種々なことを設置するなか、良いことや、訳の判らない幼稚な事も有ったものです。
 戦時体制のなか出来たのは隣組という組織と、組内に知らせる回覧板、これは現在でも各市町村内での情報媒体として生き続けていることです。その戦時体制のなか隣組が互いに相互信頼関係を結ばせた歌は、『とんとんとんからりと隣組』という歌でした。
 当時ラジオはNHK第一、第二放送の二番組だけでした。ラジオからその歌が一日何回となく流れ、みんなが自然と口ずさんで歌うように成っていました。覚えている歌詞だけ書いてみますと、
        とんとんとんからりと隣組 / 格子を開ければ顔なじみ
        回して頂戴回覧板 / 知らせらりたりしらせたり。

        とんとんとんからりと隣組 / 地震や雷火事泥棒
        互いに役立つ用心棒 / 助けられたりたすけたり。

これは戦時体制のなかを互いに助けあって行こうという、よい歌だとおもいますし、現在においても隣近所との絆を大切にしていくことがたいせつでしょう。そう言う現在にも引き継がれている素晴らしい物と、全く幼稚な事を国民に押しつけた事もあったように思います。
 戦局も我が方に厳しくなってきての諸策でしょうか。
 それは敵機から落としてくる焼夷弾をハタキ(部屋を掃除するときに障子などをはたいている場面があります)そのハタキの大きい物で、投下されて建物の屋根に落ちた焼夷弾をハタキ落とそうと言う発想、面白いでしょう。あの焼夷弾が火を噴いて雨のごとく無数に落ちてくるなか、どうしてハタキではたけるのでしょうか? 
 それと竹槍です。これも町から申し出があってのことで、父が一生懸命作っていました。竹の太さは直径四〜五糎で長さ二米くらいで、先を斜めに尖らし、おまけに炭火で炙り硬度を持たした竹槍を作っていました。これも父に「こんな物作ってどうするンやろう、向こうから機関銃で撃って来るのに、どないして相手を突くんやろう」と聞いて親父にどっぴろく(凄く)叱られ、そんなこと口にして憲兵の耳にはいってみ、おまえだけちごて家族皆引っ張られるぞ、と怒鳴られました。
 つぎに、母が白い木綿の布でマスクのような、それに袋のついているものを家族皆の分作っていました。親父が配給でしか手に配らない大切な木炭を、金槌で細かく砕いており、それを「おい、これをこの袋の中に詰めてくれるか」と言う。不思議なマスクを作って何処で使うのか判らず、思わず父に尋ねると答えは「これはな、敵が毒ガスを撒いたとき、このマスクしたら助かるのや」と答えが返ってきました。それを通学時や夜、寝床に入るとき枕元に置いて寝かされました。
 しかし子供というもの、好奇心が有りますので、一度実験してみたいのですが、毒ガスなど手に入る訳が無く、なにか良い実験する物が無いかと探していましたら見つかりました。そのときは冬でしたので寝床を暖めるのに炭団(タドン)を焼いて炬燵にいれていました。七輪に炭団を数個入れて焼くのです。その時七輪の上に顔を持って行くと、ガス臭いにおい(一酸化ガス)で頭がボーとする事を経験していましたので、そのマスクをはめて炭団を焼いている上に顔を持っていき呼吸をしてみました。とたんに一酸化ガスで、頭がボーとして目が眩み、ガスを防ぐ事は出来ないことがわかりました。がっかりしましたが、父がせっかく家族のために作ってくれたのだから、だまってそっとしとこうとしました。其のマスクも幸いのことに終戦まで使用することなく終わりました。
 今回はこのくらいで終わりますが、また想い出しましたら書いてみます。
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吉野 健治郎
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