健治郎会長が語る、「昔の話、まあ聞いちょ」(2003.6.25連載開始)
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その24【海水で味付け】(2007.6.23)
 本当に水が美しかったという話し
 昭和14〜5年頃には、佐野の町場やその付近において川を流れる水は綺麗で、モロコが泳ぎ田植えの終わる頃の夕暮れには蛍が飛び、又海辺におきましても美しい水が岸辺にさざ波が打ち寄せ、透き通った水の中を小魚や小さな蟹が泳いでいました。
 幼稚園の頃、黄疸という病気にかかりました。体全体から手の平や眼の白眼まで黄色くなりますが、体の方は痛くも痒くもなく唯、あぶら虫(ゴキブリ)を裏返したごとく手足だけ動かして寝て、町医者の先生の往診を受けるだけでした。
ある日のこと、近くに住んでいる私より3〜4才くらい年うえの従姉妹が、その母から黄疸にはシジミ貝の汁が良く効くと教えられ、シジミ貝採りに誘われついて行きました。場所は今も泉佐野の中庄にあります奈加美神社の裏手の小川だったような記憶がします。美しい水の流れる小川で、土手から覗きますとシジミ貝が沢山みえ従姉妹が川に入り笊ですくい上げますと、大きなシジミ貝が5〜6個入っています。次々と小川を川上に向かって、笊ですくいながら進んで行きますと沢山とれました。
そんな美しい水が流れ、大きなシジミ貝の採れる小川が今でも残っているのでしょうか、見に行きたいものです。

 つぎに、佐野駅付近の川で洗濯場が有った事についてお話をしてみます。南海電鉄の泉佐野駅付近が最近高架に変わりましたので、この話の場所が判らなくなりましたが、高架の遙か以前で昭和の15〜6年頃にさかのぼった話です。
 佐野駅から上り(難波)に向かって、直ぐ踏切がありましたが、その踏切からものの20メートル過ぎますと、小さな鉄橋があったのですがその下の川、円田(えんだ)川の話です。現在は川に物を捨てられ、川上からも汚れた水が流れきて、昔の面影をすっかり失いました。
 昔は円田川には綺麗な水が流れ、小魚も泳ぎ、夏にはトンボも水辺を飛びかうなか、当時の佐野の町では私の知る所では唯一の洗濯場として近所の人たちが集まり、朝にはご近所の女将さん、若い娘たちが賑やかに話に花を咲かした楽しい社交場でした。その昔の和みの場も時代が移り変わりつつ消えて行きました。

 もう一つ海の水に付いてもお話ししてみましょう。これも私の幼い頃の思い出。丁度其の時代の昭和7年に中国との戦争が始まり、それから9年の昭和16年には世界を相手にした世界戦争が起こりました。戦いが長引くにつれて私たちの日常の生活物資の不足がはじまりました。ですから子供のお菓子なんて店から姿を消してゆきました。そんな夏の思い出です。
 夏が近づく6〜7月頃より学校の授業が終わった放課後は、毎日とも言う程、友達と海へ泳ぎに行ったものです。当時は生活物資が配給となり、食料も不足していましたので、三度の食事も満足に取れない時代ですので、泳いでいますと直ぐ空腹が始まります。それを補う為に大豆か空豆を母に煎ってもらい、それを小さな茶袋に入れ、六尺褌(ふんどし)の腰の当たりに結わえ付けそのまま泳いだり遊ぶのです。茶袋とはこの辺りで茶がゆ(おかいさん)を炊くときに、お茶の葉っぱを入れるための、薄い木綿で作った手のひらに載る位の小さな袋です。
 その当時は海の水も美しく、佐野の浜も4〜5メートルの深さ位は透き通って底が見え小魚の泳いでいるのが見えました。ですから褌の腰に豆の入った袋を結わえ付けて泳げたものでした。そうして1時間位しますと、袋の中の豆が海水でふやけています。泳ぎ疲れて岸に上がり其のふやけた豆を食べますと、適当に塩味がして美味しい夏のおやつでした。それだけ、流れる川の水、海の水などは本当に美しいものでした。

 ある時、父の言う言葉に「流れ川、三尺下って清となる」とか、科学が発達して行くと人が滅びると言ってたのを聞いたことが強く記憶に残っています。その美しい水は何処へ?美しい水はお金をだして買う時代となってしまいました。
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吉野 健治郎
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